彼女が指輪選びにネガティブな理由
◆左手薬指のコンプレックス
ジュエリーショップに訪れるカップルの大半は、ダイヤモンドという高額商品を買いに行くという心積りもあって、最高のおしゃれをして現れることが多い。だが、そのカップルは飾らない服装で現れ、2人から放たれるオーラは素朴そのもの。聞けば普段からファッションへのこだわりは薄く、アクセサリーを付けることもないという。接客を担当したジュエリーコーディネーターは「自然体で背伸びしないお2人なんだな」という印象を受けた。だが1つだけ、気にかかることがあった。
普通なら、きらびやかなダイヤモンドに心を躍らせるのは男性よりも女性だが、この2人の場合、彼女の方が浮かない表情を浮かべ、どこか居心地悪そうにしている。彼の「どういうのがいい?」という問いかけに対しても上の空、両手は膝の上で固く組まれたままだ。
実は、この彼女は左手の薬指を半分失っていた。過去に事故にでも遭ったのだろうか、そのことが彼女のコンプレックスになっていて、指輪選びに対しても前向きになれずにいたのだ。
ジュエリーコーディネーターは、その事実を知らないまま、デザインの好みに加え、付ける頻度は婚約期間中がメインなのか、結婚後も日常的に付けたいのかなど、ヒアリングを進めていくが、いまいち「気に入っていただけた」という手ごたえがない。少しずつ運命のリングが絞られていく感覚はあるものの、彼女の表情は晴れないまま、「試着してみたい」という言葉も出てこなかった。
少し目先を変えようと、ジュエリーコーディネーターは彼に「なぜ今このタイミングで、指輪を贈ろうと思ったのですか?」と質問してみた。これは、2人で来店するお客様によく投げかけてきた質問だ。一般的に、彼が婚約指輪に込めた思いが彼女に伝わる機会はほとんどない。でも、その気持ちこそが婚約指輪の真の価値であり、せっかく2人で来店したお客様にとっては、指輪を買いに来たそのタイミングこそ、彼が彼女に気持ちを伝えるチャンス、それをフォローすることはジュエリーコーディネーターの重要な役割だと考えていたのだ。
純朴な彼の言葉で彼女の迷いが消えた
◆結婚の決意を一生身に着けていてほしい
指輪を贈る理由を尋ねられた彼は隣に座る彼女の方に向き直り、緊張で額に汗を浮かべながらも訥々と語り始めた。
「結婚を決めた僕の気持ちを、彼女に一生持っていてほしいと思ったんです。気持ちを言葉にすることはできるけど何か形に残したい、それが婚約指輪だと思いました。彼女は左手の薬指をコンプレックスに思っているかもしれないけど、指輪を付けるのはどの指でも構わない、今の2人の輝きをずっと身に着けていてほしいと思っているんです!」
それは、口下手で少し不器用な彼なりの精一杯の言葉だった。その言葉を通して、結婚の決意が本物だということは、彼女にも十分伝わったように思えた。
「この指輪を彼に着けていただいてはどうでしょう?」
ジュエリーコーディネーターは、その時点で最も彼女の好みに近い指輪を彼に手渡した。すると、彼女はおずおずと右手を差し出し、薬指に指輪が着けられた瞬間、その頬にポロポロと涙を流した。「いくつか、ジュエリーショップをまわってきて、やっと、これだと思える指輪に出会えました…」
「もちろん、デザインも彼女の好みに合ったものでしたが、彼女の心を動かしたのは、指輪に込めた彼の思いだと痛感しました。彼の気持ちを受け止めたい、重要なのはどの指に付けるかではない、気持ちを受け取ることの方が大事なんだ、彼女からはこんな気持ちが読み取れました。なぜ、婚約指輪を贈りたいのか、その思いこそが婚約指輪の本当の価値だと確信しています」(ジュエリーコーディネーター)